「スパイダーマン ホームカミング」を観て

 小さい頃、わたしはお姫さまよりもヒーローに憧れていた。誰かを守るために、何かを守るために、悪と戦う正義のヒーローになりたかった。正直に言うと、今でも割となりたい。ブロンドで背が高くて馬に乗って颯爽と登場する王子を待つだけのつまらないお姫さまなんかよりもずっと、かっこよくてみんなに好かれるヒーローになりたい。(この話と全然関係ないし勝手な想像だけど、ディズニーのプリンセスに憧れる女子って、高学歴で高収入で優しいイケメンと結婚することを夢見る限界婚活女になりそうだよね。)

 最新作の「スパイダーマン」の主人公は、わたしと全く同じようにヒーローに純然たる憧憬を抱いている男の子だった。成績は優秀だけど、友達は少なくて同級生にからかわれてばかり。パーティーに行っても浮いちゃうし、居心地が悪い。そんなナードな主人公が、アベンジャーズに入って、人を助け、街を救い、周りから認められることを夢見るだなんて、至極当然なことのように思える。もしかしたらわたしも周りに認められたいがために、ずっとヒーローに憧れていたのかもしれないなと思った。

 主人公の成長がテーマとなっている映像作品は往々にしてある。今回のスパイダーマンのリブートも例に違わず、ヒーローになりたかった少年が本物のヒーローへと成長する物語だ。どうしても困ったら誰かが助けてくれると信じている主人公は、およそヒーローとは呼べなかった。認められるためではなく、人を救うために自分の力を信じて力を振り絞った時、彼はようやく本物のヒーローになった。その時の俳優の表情がほんっっっっっっっっっとに素晴らしかった。ヒーローとはさもありなんという感じ。感極まって普通に泣きそうになってしまった。自分本位ではなく、他人本位で行動を起こす時時、本物のヒーローになるんだな。身に染みた。

 アメイジングとかそれ以前のスパイダーマンより、ずっと親近感が湧いて、ずっと応援したくなって、ずっと憧れられるスパイダーマンだった。最高だった。ちなみに主人公役のトム・ホランドがかっこかわいすぎてもう一回観れそう。

スニーカーの美学

 聞いてよ。先週、スニーカーを買ったの。久々にスニーカーを履いた。最後にスニーカーを履いたのは、中学生2年生の遠足の日以来だったかな...。コンバースのハイカットは履きづらいし衝撃を吸収してくれるわけでもないし、「なんなんだこれは」と悪態をついて登山した気がする。

 映画「LEON」のマチルダに影響を受けまくったであろう黒髪前下がりボブのお姉さんから「ヒールの高さはプライドの高さよ」とかなんとかかっこいいことを言われてから、高いヒールの靴ばかり履くようになった。彼女のことを崇拝していてたわたしが、ぺたんこの靴を避けるようになったのはまあ想像に容易い。

 それから大学4年生の今に至るまで、約10年弱ヒールの高い靴を履き続けてきた。ヨルダンのペトラ遺跡とか、どうしてもハイヒールが履けない時は、妥協案としてドクターマーチンを履いてやり過ごしていた。ライブに行く時もだいたいドクターマーチンだった。砂まみれになったり、人に踏まれたり、大変な場面はドクターマーチンに任せていた。長い間本当にありがとうマーチン。愛していたよ。わたしの美しい青春の一ページ。ちなみになんですけど、わたしのドクターマーチン8ホールはかなりいいやつで、わざわざイギリスの店舗で買った。それゆえ愛着も強かった。

 まあマーチンの話はどうでもよくて。今回スニーカーを買おうと思い立ったのは、イメチェンしたかったからという理由に尽きる。背伸びをしてライブハウスに出入りしていた中学生の頃とは違って、大人っぽく取り繕う必要もなくなった。お嬢様キャラを通そうと思っていた大学入学時と違って、コンサバっぽい格好をする必要もなくなった。そう、わたしはついに上品だけどカジュアル、それでいて華やかなお姉さんになりたいよ〜〜〜〜!!!!ウワ〜〜〜〜ン!!!!と思い始めたのである。

 というわけで、スニーカーに造詣が深いおしゃれな友達にスニーカーを選んでもらうことにした。これまでスニーカーの違いがよく分からなくて、どれがかっこよくてどれがかっこよくないのかイマイチピンと来ていなかったので、友人に尋ねる。いろいろ条件を挙げてくれた中で一番印象に残っているのが、「スニーカーの背景」の話だ。誰が、どういうことを考えてデザインしたのか、スニーカーの文脈を知るべきであると。その上で、その文脈なり思想なりが自分に合致していると「その人に合っていて、その人にとってかっこいいスニーカー」となるのだという。こう解釈したけど合ってるかな?間違ってたらごめん(笑)わたしなりに解釈した、スニーカーの美学だった。

 やー、でも文脈とか背景は大事よね。わたしの中では腑に落ちた。スニーカーとはあんま関係ないけど、文脈についてよく考える。

 誰かにプレゼントをする時だって、文脈を考える。なんとかちゃんはよく海外旅行に行くから、旅行先で使えるものにしよ〜とか。逆にプレゼントをもらった時には、どういう文脈でこのプレゼントをくれたのか考えることがとても楽しい。

 あとは、その研究テーマに行き着いた文脈とか。なんであなたがその研究に行き着いたのか、答えられないとまずい。でも、「なんでそのテーマなの!?」みたいなコアなテーマに行き着いた人から文脈を聞けるとめちゃくちゃ楽しい。

 そういえば。そうだそうだ。最近考えたこと。いいレストランは、一皿一皿に文脈がある。最近クーカーニョというレストランに行った時に、強くそう感じた。そこのシェフは一貫して「客のため」に料理を作る。それが如実に現れている。「今日は暑い日でしたので、少しでも涼しくなっていただくためにドライアイスを使った演出にしてみました」とか。料理の文脈を知れると、より幸福度が高い。

 えーと、何が言いたかったのかというと、文脈を考えるといろいろたのしい。的なね。書きながらものを考えていくとこういう支離滅裂な文章になるのだ!ワハハ!

 

「あんまり考えすぎない方がいいよ」という忠告

 例の騒動で読者が増えてしまったので、ブログを新しく開設した。仲良くしてくれている友人にはめちゃくちゃ迷惑をかけてしまって本当に申し訳ない気持ちになっている。

 

 今まで20年ちょっと生きてきた中で、一番めげた。というか、今もめげている。これまであまりにも能天気に生きていたからかもしれないけど、こんなに落ち込むんだというレベルでめげている。今でも暗い部屋にいるとフラッシュバックするし、涙が溢れ出すし、過呼吸になるし、 周りの音が突然遠くなってガンガンと反響するし、本当に些細なことで苛々するし、人の話もあんまり入ってこない。わたしがわたしでなくなってしまったような感覚に陥っている。

 

 これまでも同様の被害に遭ったけど、今回は初めて被害を公に訴えた。訴えた意味はあったと自分に言い聞かせているものの、公にしたことでひどいコメントがたくさん寄せられた。正直全てのひどいコメントを暗唱できるくらいには、記憶に焼きついている。

 

 人前でぼろぼろ泣いていると、「何が辛いの?」と聞かれる。被害に遭ったことか、ひどいコメントが来たことか、はたまた自己嫌悪か。分からん。

 

 わたしがどう答えても、心療内科の先生や母や友人から「考えすぎない方がいい」というアドバイスをもらう。尤もだけど、どうやって考えないようにすればいいのか。いつも考えすぎなわたしは、一体どうすれば考えずに済むようになるのかをずっと考えていた。

 

 そんなこんなで今日、友人のブログを読んだ。彼女の言うことが痛いほどよく分かった。 

 

na7elf.hatenablog.com

 

でも。私は考えずにはいられない。

辛くても、苦しくても、泣きそうになっても、毎日毎日、様々なことを考えてしまう。

それは不幸なことなのかもしれない。

考えないで生きられれば…と思うこともある。

 

 違う文脈であることは承知しているけれど、この箇所に深く共感した。彼女は、考えることが苦痛であると理解した上で、思考し続ける選択をする。それが世界と折り合いをつけるための彼女なりの手段であるゆえに。 

 彼女のブログを読むまでは、思考を放棄することだけを一心に考えていた。ライブハウスに足を運んでぼーっと音楽に浸ったり、延々と料理を作り続けたり、人と会ったりして、気を紛らわせようとしていた。でも、どうも上手くいかなかった。一秒でも隙があるとすぐに考えてしまう。

 

 彼女のブログを読んで、わたしは彼女に倣おうと思った。考えることは苦痛を伴うが、それでもわたしたちにとって、たった一つ解決の手段だ。考えることと向き合い、事件と折り合いをつけてゆこうと思う。そのためにも、わたしは書かなければならないし、話さなければならないんだ。